部分最適と全体最適

 

 高校は教科ごとに切り離された縦割り社会である。 職員室は教科単位で割り振られている。社会科職員室、国語科職員室、英語科職員室、数学科職員室といった具合である。

 それはそれでメリットもあるのだが、問題は専門教科以外の部外者は口を差し挟むことを許されない雰囲気があることだ。オーケストラで言えば、パートリーダーばかりがいてコンダクターがいない状態といっていい。もちろん校長はいるが、民間企業の社長に比べれば、その権限は小さい。

 これまでは、自分のパートを良くすれば全体としていい演奏になるという暗黙の前提があった。しかし、自分の教科さえ良くすれば 生徒の総合的な学力が向上するというのは幻想でしかない。

 たとえば、「現代社会」の科目を猛烈に勉強させて、センター試験で好成績を取らせたとする(やる気になれば不可能ではない)。しかし、そうした指導をすれば、英語・数学・国語の学習時間を奪い、全体としての生徒の学力低下は避けられない。

 入試における英・数・国のウエイトの大きさを考えると、社会科の教師はたとえ宿題一つ出すにも遠慮せざるを得ない。なにしろ生徒にとって一番貴重な資源は「時間」なのだ。1日2時間か3時間の学習時間しか取れない中で、限られた時間をどの教科がどれだけとるか。予習・復習の指導方法を含めて、そのあたりの議論や調整をする機関が全くないのが今の学校である。

 今、自分の教科の学力を最大化するという考え方を「部分最適」と呼ぼう 。これに対して生徒にとって最も望ましい状態を最大化する考え方を全体最適呼ぶことにする。

 現在の高校教育は教科ごとに専門化され、細分化されているため、全体最適を口にするものがおらず、部分最適ばかり追求される傾向が見られる。成果主義という人事評価システムの導入によって、働き(= 自分の教科のセンター試験の得点?)に応じて給料が変わる時代になり、そこうした傾向に拍車がかかっている。

 進学校ではいま、宿題をたくさん出し、ノート提出を頻繁にさせ、生徒の限られた学習時間を自分の教科により多く 振り向けるように指導する教員が増えている。みんながそうしう指導をすればどうなるか。生徒はへとへとになってしまう。

 合成の誤謬という言葉がある。一つ一つの部分を取り出せば正しいのだが、全体としては間違ったものになるという意味である。各教科が頑張れば、全体が良くなるとは限らない。先生は自分が出している教科の宿題量は分かっても、他の先生がどのくらいの宿題を出しているかまでは分かっていない。宿題の全体量を把握しているのは生徒だけである。教科ごとの縦割り教育。そこにメスを入れる必要がある。

 

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